Beautifulgarbage
2008年3月13日 日常
人が美しくなろうとするのは、人に美しいと思われたいからであり、たとえ「別にモテたいわけじゃないの。私らしく生きたいの」と主張したところで、「自分らしく生きているあの人は素敵だ」という評価を少なからず期待している部分が誰しもあるんだと思うのです。
その手段や結果がどのようなものであろうと、結局のところ美しいかどうかというのは、自分自身が決めるのではなく他人、つまり自分ではない人のみが決定することができることだと思うのです。他人の評価を気にしないのならば、そもそも自分らしく云々とは言い出さないと思うのです。
美しいという観念は相対的なものなのだと思います。
ではなぜ花は美しく咲くのでしょうか。
誰に頼まれたわけでもないのに、子孫を残す手段として美しい花を咲かせるのはなぜなのでしょうか。
今はゴツゴツとした黒い枝を伸ばしている無骨な桜の木が、後2週間もすると美しい花を咲かせるなんてシンジラレナイ。
そこでさっきの話に戻るのですが、「美しい」という評価は相対的なものであるならば、その「美しいもの」が「美しい」かどうかは、それを評価する人にかかっているのだと思うのです。
自分が美しいと思うものをすべての人が美しいと思うとは限らないのはそのためです。
ということは、美しいのは花ではなく、花を美しいと思う心なのではないでしょうか。
物事を美しいと思う心があって初めて、何が美しいのかがわかるはずです。
「美しくなりたい」と思うのならば、IKKOのアドバイスに耳を傾けるのではなく、世界に目を向けて見聞を広め、なにが自分にとって美しいのか、見極める目を養うべきなのではないかしら。
もちろん、IKKOが美しいと思うのがおかしいというわけではないです。そういう心も必要ですが、世の中ってのはもっと広いと思うんだ。
早く桜が咲かないかしらねー。
その手段や結果がどのようなものであろうと、結局のところ美しいかどうかというのは、自分自身が決めるのではなく他人、つまり自分ではない人のみが決定することができることだと思うのです。他人の評価を気にしないのならば、そもそも自分らしく云々とは言い出さないと思うのです。
美しいという観念は相対的なものなのだと思います。
ではなぜ花は美しく咲くのでしょうか。
誰に頼まれたわけでもないのに、子孫を残す手段として美しい花を咲かせるのはなぜなのでしょうか。
今はゴツゴツとした黒い枝を伸ばしている無骨な桜の木が、後2週間もすると美しい花を咲かせるなんてシンジラレナイ。
そこでさっきの話に戻るのですが、「美しい」という評価は相対的なものであるならば、その「美しいもの」が「美しい」かどうかは、それを評価する人にかかっているのだと思うのです。
自分が美しいと思うものをすべての人が美しいと思うとは限らないのはそのためです。
ということは、美しいのは花ではなく、花を美しいと思う心なのではないでしょうか。
物事を美しいと思う心があって初めて、何が美しいのかがわかるはずです。
「美しくなりたい」と思うのならば、IKKOのアドバイスに耳を傾けるのではなく、世界に目を向けて見聞を広め、なにが自分にとって美しいのか、見極める目を養うべきなのではないかしら。
もちろん、IKKOが美しいと思うのがおかしいというわけではないです。そういう心も必要ですが、世の中ってのはもっと広いと思うんだ。
早く桜が咲かないかしらねー。
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