京橋の火事、会社の近くでした。すごく近くで、席によっては窓から見えるくらいだったそうです。
どこかの階のけっこう偉い人(英国人)が飛び出してったそうです。野次馬。
私はもちろん見に行ったりしませんでしたが、9時のニュースを見たらなんとホリジュンが来てたじゃないの!!!
ぎゃー!!!
見逃したー!
ホリジュンを。
そこが非常に悔やまれます。
で、それはともかく今日は会社帰りにゲーテ(ドイツ語を学べる公的機関。ドイツ文化センターにある。ドイツ語を学ぶ人は一度は通るであろう道)に行ってナチスドイツのプロパガンダドキュメンタリーを集めた映画を観てきました。個人的には充実アフター5。
いろんなマニアな人が集ってるのですが、ボウズ頭にメガネの30代男性がいて怪しみましたが他人の空似でした。
さて今日はそのマニアックな話ではなく、最近の新訳ブームについて。
主な「古典文学」の独占翻訳権が次々に切れて、どしどしと新訳が出ているのはもう周知の事実。カラマーゾフの兄弟が売上上位に並んだことをきっかけにして(かどうかは知らないけどその辺りから盛り上がってきたと思う)、有名作家から大学教授から、こぞってマイ・フェイバリットを訳して出版しております。
今日の読売新聞の朝刊には、金原ナントカと角田光代?という作家による(わたしバカ丸出し)翻訳文学対談の様子がレポートされてました。
新訳が出て、とっつきにくかった古典が読みやすくなっている!
という事実を軸にしてアレコレおすすめし合ってました。
ここで私は思いました。
旧訳がそんなに悪いのか?
翻訳されたものの中には、確かにわかりにくい言い回しや古い言葉がたくさん入っている場合もある。
でもさー、その本自体、書かれたのが50年以上も前のことでしょ?
言い回しが古いなんて、当たり前じゃん。
森鴎外の現代語訳なんて出さないでしょ?舞姫すげー読みにくかったけど、でもあの文体含めて森鴎外なんでしょ?
そういう「現代版」という形はあってもいいかもしれないけれど、それはもう森鴎外ではないでしょ。なんか、小林よしのりの戦争論、みたいな。ずれすぎかそれは。
難解な言葉を現代で使われているわかりやすい言葉に置き換えるというのは、現代人の活字離れを食い止めるきっかけになるかもしれないけれど、文学作品そのものの味わいを失ってしまうことにはならないのかしら?現代の読者に媚を売り、作家への敬意を忘れてしまってはいないかしら?
「星の王子さま」のように、訳文が文法的におかしいとか、そういう間違いは正されてしかるべきだと思うし、小耳にはさんだカラマーゾフの兄弟での一番の難読ポイントであった、人称代名詞の統一とか、そういう「読みやすさ」の改善はいいと思うのね。
でも古い言い回しは、そのまま使ってもいいんじゃないかなーと思うのよね。たとえばゴーリキーの「外套」。原題は知りませんが、「今時外套なんて、若い人は知らないよ。ジャケットにしよう」と考えた人がいたら(永遠に現れないことを願います)、もうそれはこの小説の魅力(個人的に「外套」に魅力は感じませんが・・・)を全く取り去ってしまっていると思うのです。なんか、ロカビリーなアメリカンが出てきそうな響きを感じます個人的に。
外套もジャケットもコートも上着も(だいたい)同じものを指しているけれど、その言葉から得るイメージは全部違うと思うのね。
そのなかで、ゴーリキーのあの小説の雰囲気を出してるのはジャケットや上着じゃないと思うのです。
もっとふさわしい単語があるかもしれません。
シェイクスピアやチェーホフとか、特に戯曲の解釈ってイロイロあると思うけど、それは舞台や映画の世界でやってもらうとして、翻訳は科学的に行われるべきだと思うのよね。訳者の主観はそこに存在するべきではないんだもの。
といいつつも文学作品をアレコレ読み比べたことはないのですが。でもカラマーゾフの兄弟は旧訳と新訳を読み比べてみたいとちょっと思う。
死ぬまでに読みたい本リストに入れてあります。
難しいわよねー翻訳って。
どこかの階のけっこう偉い人(英国人)が飛び出してったそうです。野次馬。
私はもちろん見に行ったりしませんでしたが、9時のニュースを見たらなんとホリジュンが来てたじゃないの!!!
ぎゃー!!!
見逃したー!
ホリジュンを。
そこが非常に悔やまれます。
で、それはともかく今日は会社帰りにゲーテ(ドイツ語を学べる公的機関。ドイツ文化センターにある。ドイツ語を学ぶ人は一度は通るであろう道)に行ってナチスドイツのプロパガンダドキュメンタリーを集めた映画を観てきました。個人的には充実アフター5。
いろんなマニアな人が集ってるのですが、ボウズ頭にメガネの30代男性がいて怪しみましたが他人の空似でした。
さて今日はそのマニアックな話ではなく、最近の新訳ブームについて。
主な「古典文学」の独占翻訳権が次々に切れて、どしどしと新訳が出ているのはもう周知の事実。カラマーゾフの兄弟が売上上位に並んだことをきっかけにして(かどうかは知らないけどその辺りから盛り上がってきたと思う)、有名作家から大学教授から、こぞってマイ・フェイバリットを訳して出版しております。
今日の読売新聞の朝刊には、金原ナントカと角田光代?という作家による(わたしバカ丸出し)翻訳文学対談の様子がレポートされてました。
新訳が出て、とっつきにくかった古典が読みやすくなっている!
という事実を軸にしてアレコレおすすめし合ってました。
ここで私は思いました。
旧訳がそんなに悪いのか?
翻訳されたものの中には、確かにわかりにくい言い回しや古い言葉がたくさん入っている場合もある。
でもさー、その本自体、書かれたのが50年以上も前のことでしょ?
言い回しが古いなんて、当たり前じゃん。
森鴎外の現代語訳なんて出さないでしょ?舞姫すげー読みにくかったけど、でもあの文体含めて森鴎外なんでしょ?
そういう「現代版」という形はあってもいいかもしれないけれど、それはもう森鴎外ではないでしょ。なんか、小林よしのりの戦争論、みたいな。ずれすぎかそれは。
難解な言葉を現代で使われているわかりやすい言葉に置き換えるというのは、現代人の活字離れを食い止めるきっかけになるかもしれないけれど、文学作品そのものの味わいを失ってしまうことにはならないのかしら?現代の読者に媚を売り、作家への敬意を忘れてしまってはいないかしら?
「星の王子さま」のように、訳文が文法的におかしいとか、そういう間違いは正されてしかるべきだと思うし、小耳にはさんだカラマーゾフの兄弟での一番の難読ポイントであった、人称代名詞の統一とか、そういう「読みやすさ」の改善はいいと思うのね。
でも古い言い回しは、そのまま使ってもいいんじゃないかなーと思うのよね。たとえばゴーリキーの「外套」。原題は知りませんが、「今時外套なんて、若い人は知らないよ。ジャケットにしよう」と考えた人がいたら(永遠に現れないことを願います)、もうそれはこの小説の魅力(個人的に「外套」に魅力は感じませんが・・・)を全く取り去ってしまっていると思うのです。なんか、ロカビリーなアメリカンが出てきそうな響きを感じます個人的に。
外套もジャケットもコートも上着も(だいたい)同じものを指しているけれど、その言葉から得るイメージは全部違うと思うのね。
そのなかで、ゴーリキーのあの小説の雰囲気を出してるのはジャケットや上着じゃないと思うのです。
もっとふさわしい単語があるかもしれません。
シェイクスピアやチェーホフとか、特に戯曲の解釈ってイロイロあると思うけど、それは舞台や映画の世界でやってもらうとして、翻訳は科学的に行われるべきだと思うのよね。訳者の主観はそこに存在するべきではないんだもの。
といいつつも文学作品をアレコレ読み比べたことはないのですが。でもカラマーゾフの兄弟は旧訳と新訳を読み比べてみたいとちょっと思う。
死ぬまでに読みたい本リストに入れてあります。
難しいわよねー翻訳って。
コメント
火事、すごかったらしいね。
築地まで煙と臭いが漂ってきてたしヘリコプターも飛んでるから、どこだ?どこだ?って騒いでいたよ。
でも革ジャケ着てたんでたぶん違う人だと思いました。ていうか違う人でした。映画マニアっつーか業界人ぽかった。
煙すごかったみたいですねー。うちのビルはサイレンの音すら聞こえませんでした(@_@)