ナチ・ドイツと言語―ヒトラー演説から民衆の悪夢まで
2007年4月20日 読書
久々にタイトルと目次にだまされたというかのせられた。
タイトルと目次からは、プロパガンダについてかと思ったのですが…。
期待したほどではなかったというか、期待はずれだった。
ナチスが用いた「言語」を5種類に分類し、それぞれについて具体的事例を示しつつ、ナチスがどのようにドイツ国民にナチズムを浸透させていったか、民衆はそれに対しどう反応したか、を検証しています。
5種類とは、演説、映像、教育、ジョーク、夢。
各項目とも、具体的事例が非常に多く挙げられています。さらには様々な研究文献も挙げられているのですが、全体的に「無理矢理難しいものに仕立て上げた」という感じがします。
ナチス研究は様々な視点から研究されているので、こういうものもありなのか、と納得できる反面、「それは、ナチ主義者の主張と何が違うの?」と疑問に思えてくる点も多い。
具体的には一番初めの演説の部分。
ヒトラーの演説には聖書をもじったものが数多く使われており、それをもってヒトラーはナチス党を宗教的なものに高め、ドイツ国民が受け入れやすい形に仕立て上げた、というものなのです。
しかしそれは、裏返して言えば「ヒトラーはイエス的存在であり、むしろイエスのできなかったことを成し遂げる存在である」と主張するナチスと同じなのではないでしょうか。
ここはちょっと、読んでて気持ち悪かったな。
研究というか、「わが闘争」を聖書のように読み耽る感じに似ていると思った。ヒトラーの演説からキリスト教的なものを拾い集めるという行為が。
「映像」では、やたらと詳細な「意志の勝利」の情景描写とその場面の持つ意味の解釈が延々と続き、「教育」では逆に、ナチス的ではない教師もいたという事例を紹介しています。
このあたりから、なんか本の筋道が良くわからなくなってきた。
「ジョーク」でも具体例を挙げつつ、なんだか非常に小難しい解釈をしています。
最後の「夢」はもう読みませんでした。ばかばかしすぎて。
当時意味のなかったもの(流行のジョーク、老人の夢など)に意味を見出そうとするあたりが、なんだかナチスの裏返しのような感じが否めませんでした。
がっかりだったなー。
タイトルと目次からは、プロパガンダについてかと思ったのですが…。
期待したほどではなかったというか、期待はずれだった。
ナチスが用いた「言語」を5種類に分類し、それぞれについて具体的事例を示しつつ、ナチスがどのようにドイツ国民にナチズムを浸透させていったか、民衆はそれに対しどう反応したか、を検証しています。
5種類とは、演説、映像、教育、ジョーク、夢。
各項目とも、具体的事例が非常に多く挙げられています。さらには様々な研究文献も挙げられているのですが、全体的に「無理矢理難しいものに仕立て上げた」という感じがします。
ナチス研究は様々な視点から研究されているので、こういうものもありなのか、と納得できる反面、「それは、ナチ主義者の主張と何が違うの?」と疑問に思えてくる点も多い。
具体的には一番初めの演説の部分。
ヒトラーの演説には聖書をもじったものが数多く使われており、それをもってヒトラーはナチス党を宗教的なものに高め、ドイツ国民が受け入れやすい形に仕立て上げた、というものなのです。
しかしそれは、裏返して言えば「ヒトラーはイエス的存在であり、むしろイエスのできなかったことを成し遂げる存在である」と主張するナチスと同じなのではないでしょうか。
ここはちょっと、読んでて気持ち悪かったな。
研究というか、「わが闘争」を聖書のように読み耽る感じに似ていると思った。ヒトラーの演説からキリスト教的なものを拾い集めるという行為が。
「映像」では、やたらと詳細な「意志の勝利」の情景描写とその場面の持つ意味の解釈が延々と続き、「教育」では逆に、ナチス的ではない教師もいたという事例を紹介しています。
このあたりから、なんか本の筋道が良くわからなくなってきた。
「ジョーク」でも具体例を挙げつつ、なんだか非常に小難しい解釈をしています。
最後の「夢」はもう読みませんでした。ばかばかしすぎて。
当時意味のなかったもの(流行のジョーク、老人の夢など)に意味を見出そうとするあたりが、なんだかナチスの裏返しのような感じが否めませんでした。
がっかりだったなー。
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